ある朝、私はワカメ入り味噌汁を作りながら学校教育の新聞記事を読みつつ、翌週のゼミの課題(ユーモアに関する何か)を考えていました。ワカメは、乾燥わかめから水でふやかして生わかめにするタイプでした。そうしないと食べれたものではありません。同じワカメでも、乾燥わかめと生わかめでは、まるで別物、新鮮さも、生き生きとした触感も、味も栄養も異なります。ワカメは、乾燥わかめのままでは、その本領を発揮せずに終わってしまうのです。それには水という存在を媒介に、とれたてのようなみずみずしい状態である生わかめにしなければいけません。ワカメは、生わかめがワカメのあるべき姿なのです。
これと同じことが、英語教育にも当てはまります。
おいおいそんな展開で大丈夫か?と聞こえてきそうです。
どういうことか?
結論から言えば、今の英語教育は乾燥わかめであり、生わかめではない!ということです。
これを読んでいる人は「何を言っているのだ?」と思うでしょう。話を進めます。
日本人はいつまでたっても英語が使えるようにならないと言われますが、それはこれまでの英語教育が乾燥わかめであった…つまるところ、英語教育の中身を生かさずに終わる、または生かすチャンスがない、そして生かす方法がきわめて限られているからです。
日本の英語教育は、中学校から高校まで、ヘタすれば大学も、英語教育=語彙文法および読解の偏向でした。偏向と書きましたが、もちろん語彙・文法・読解は英語を使えるようになるうえで必要不可欠です。たとえて言えば、ワカメが持っている豊かな栄養そのもです。が、それがすべてではありません。乾燥していてはおいしくありませんし、食材としては不合格です。
そもそも、言語というものは何でしょう。歴史を紐解けば分かりますが、簡単に言えば、人が考える物事(認識)を言語を媒介に人に伝える「伝達手段」です。人から人へ、思いや考えを伝達するところに、言語の本分があります。それは日本語であったり、英語であったり、ドイツ語であったりします。言語は伝達手段になって初めて、言語なのです。つまり、生わかめ(=本来の生き生きとした状態)なのです!語彙や文法は、乾燥した状態で本来の機能を果たしていません。どんなに栄養が豊富でも乾燥わかめであったら…つまり、沢山の知識があってもそれが使えなければ意味がないのです。乾燥わかめは、水に浸して生わかめにしなければいけません。(乾燥)英語も、実践という水に浸して初めて、本来のいきいきとした姿を取り戻す、つまり生わかめになるのです。
こんな経験はないでしょうか?勉強してきた英語で、初めて外国の人と話した時の、興奮と不安と、楽しさとモドカシサ等々を感じたことは。まるで新鮮なワカメのように、ぴちぴちと頭がめまぐるしく動いて、いろんな感情が湧き出て、不安の中でもちゃんと話がしたい!と熱がこもったことは。それは、英語が乾燥わかめから生わかめになった証拠です。そして、今の英語教育には、その段階が抜け落ちているのです。
そんな中、海外留学に行ける一部の人々が、その生き生きとした状態を感じとり、英語って楽しい!と思い、英語への熱意をより新たにし、磨いていけるのです。
無味でおいしくない乾燥わかめと同じように、つまらない英語の勉強(語彙・文法の暗記)に終始しては、努力を傾けようと思っても難しいのです。なぜなら、その英語は乾燥しており、口に踏んでもおいしくないからです。それを毎日食べようと思えるでしょうか。
日本人の英語に対する勉学の熱心さ、知識の量は、ネイティブの人たちにも一目置かれています。が、それは栄養が豊富な乾燥わかめなのです。これを、どうにかして生わかめにしなければならない。一部の人々だけでなく、英語を学ぶすべての人々が…。
これをどうクリアしていくかが、英語教師を目指す私の、野望です。
話しがだいぶ長くなってしまいましたが、私は現代の英語教育をワカメで解明しようと思い、記事にしました。
描き切れない分が沢山ありますが、これにて失礼します。
担当は北川でした。
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